interview

チェチェンの研究をしよう

チェチェン紛争との出会い

生まれは東京ですが、すぐに引っ越して大学卒業までずっと横浜に住んでいました。大学は横浜市立大学です。指定校推薦枠で入学しましたが、そのための面接の準備に高校の先生から「NGOの報告会に行ってみて情報収集をしたらどうか」と言われたんです。それでアムネスティ・インターナショナル(Amnesty International)という国際人権団体の集会に参加することにしました。当時私は何も知識もなく、紛争というとアフリカやイスラエル/パレスチナとかしか思い浮かびませんでした。そこでチェチェンの話を聞いてからずっとチェチェンの研究を続けていて、博士号もチェチェンの研究でとりました。

これは『チェチェン 屈せざる人びと』という林克明さんの写真集です。私はこの写真を見たときに衝撃を受けたんです。近代的な建物が並んでいるんですけど、よく見ると小さな穴が幾重にも空いていて、第一にここ(写真の中央)が巨大なクレーターみたいになっていて、そこに少年がぽつんと立っている。そんなに綺麗ではないもののちゃんと服を着ていて、こんなに文明が栄えたところで紛争が起きている。その規模が相当なものであるらしい、ということに大きな衝撃を受けたんですね。

NGOの集会では、林さんと一緒に現地に行ったジャーナリストの方がこれ(本)とほぼ同じ写真を含む現地の写真を会場に展示していました。それを見たときに「こんな大変な状況があるのか」というのが衝撃で。高校生で純粋でしたから、「なんでこんなことが起きたんだろう」ということが気になったんです。

そのとき朝日新聞の特派員で現地に行っていた徳永晴美さんという方の講演がありました。その話を、配布された紙が真っ黒になるくらいにメモをとったことを覚えています。そのときのことは非常に記憶に残っていますね。興奮が冷めやらなかった。そのときに「この紛争についてもっと知りたい」と自分自身が思うと同時に、「他の人にも知らせなきゃいけないんじゃないか」という気持ちになり、大学入学した時点で「チェチェンの研究をしよう」と思ったんです。

何かできることあったらやります

NGOでチェチェン難民支援のためにアゼルバイジャンへ

チェチェン難民の写真(富樫撮影)
チェチェン難民の写真(富樫撮影)

(大学に入学して)チェチェンの研究をしようとしても当時、資料がぜんぜんないんです。ロシア語もできないし英語もできない。どうやって研究したらいいのかという壁にぶち当たりました。でもNGOやジャーナリストの人たちのように現地に行った人たちがいるので、その人たちと関わりながら情報収集したらいいのではと思い、大学1年生のときにNGOのいろんな集まりにボランティアとして積極的に参加してみることにしました。また、ただ研究がしたいのではなくて、自分自身が「何か社会に役立つことをしたい」「チェチェンの困っている人たちになにか貢献したい」という気持ちもあったことも(NGOに参加した)大きな理由ですね。

大学1年か2年のときにアルバイトでお金を貯めて、夏休みにニューヨークに1ヶ月ほど行ったりしました。それで少し自信もついて、3年生のときに初めてNGOの活動でモスクワ経由でアゼルバイジャンに行ったんです。

最初は言葉も全然できなかったので、組織におんぶに抱っこで「何かできることあったらやります」って感じでした。アゼルバイジャンは旧ソ連の都市の一つですから、チェチェン難民も普通の家に住んでいて、一見すると難民と分からないんです。でも例えば何か大きな音がするとおびえてしまう。空爆の記憶が残っていたりとか、夜に悪夢を見てしまうとか、(精神的なショックで)大きくなってもなかなか「おねしょ」が治らないといったこともある。難民には女性と子どもが多いですから、お父さんがいない環境で生活していくので、(私のような)ちょっと大きなお兄さんが来ると「おんぶして」「肩車して」といった感じで甘えてくるんです。そういうかたちで交流をしていました。4年生の卒業までに現地には2,3回行きました。学士論文は難民の置かれている状況について書きました。

いわゆる「問題児」だったんです

自分の存在意義を問う幼少期

今思うと学生の頃は背伸びしていたところもあった気がします。社会でいろんな活動をしたいという想いと、同時に自分のことを認知して欲しいという想いもあって。どうしてそうなったかというと、小学校の頃の経験が大きかったと思います。

小学校時代の私は、いわゆる「問題児」だったんです。学校で嫌なことがあると学校から家に帰ってしまう。3年生のときがスタートだと思いますけど、先生とうまく意思疎通ができないことがきっかけだったと思います。(先生に反発して)怒ったり暴れたりして教室から出ていく。最初は探してくれたけど誰も探してくれなくなる。自分が(教室に)戻ろうと戻るまいと授業はそのまま行われている。「誰も自分のことなんて気にかけてくれない」ってなってくる......。 

最初は小さなボタンの掛け違いでうまく感情表現ができなくてそういう行動を起こすんですけど、次第に「自分って一体なんなんだろう」って考えるんです。「自分なんていてもいなくても変わんないでしょ」って。そういう状況により一層反発するから(教室を)出て行くとき、ドアをバーンって蹴っ飛ばしたりしてアピールする。でも何も変わらない。3年生から5年生くらいまでは他にも行事を、例えば運動会なんかをボイコットするとかやっていました。

そのうちいくつか転機がありました。校長先生が校長室に招き入れて、ワープロの使い方や将棋のやり方を教えてもらったり。そうやって居場所を提供してくれたんですよね。それが3年生の途中くらいからあって、教室にはいないで校長室に行ったりしていましたね。

そんな中、目の前の中学校がものすごい不良の学校で、「このまま勉強しないでいったら、末路は......」って思ったんです。それで5年生くらいになったら自分でも「ちょっと考えないといかんぞ」と思うようになり、次第に変わっていきました。

(このエピソードを話すと現在は大丈夫なのか不安がられるのですが(笑)、小学生の一時期の話であり、現在は上記のような事は全くありませんので、ご安心下さい。一応、念のため。)

自分の存在意義を確固たるものにしたい

答えのない学びの楽しさを知る

自分じゃ何が原因かなんてなかなか思い出せないですけど、当時は口下手で自分の思いをうまく伝えることができなかったんだと思います。自分が安心できるかできないかっていう環境の差を、雰囲気で感じ取ってしまう。そしてその安心できる環境から外に出ると急に防御姿勢をとってしまう。そういう敏感な子どもでした。そして自分のことを他人にうまく伝えられない。そうすると相手とのコミュニケーションがうまくいかなくなって、一方的に「なんで自分のことが理解されないんだろう」とフラストレーションがたまっていく......ってことがあったんだと思います。今、論理的に考えると、ですけど。

おそらく人間誰しも自分のことを認めて欲しいものだと思います。でもそれは「認めてくれ」って迫ったところで人は認めてくれない。何が一番手っ取り早いかって言うと、「自分が誰かにとって必要な人間になっていけば必然的に、自分の存在意義っていうのは出てくるだろう」と思ったんです。もちろん当時はそんなにはっきりとした言葉で意識はしていませんでしたよ。だけどそれらしいことにはハッと気がついたんですね。

「自分の存在意義を確固たるものにしたい」という想いはあったものの、中学校や高校生の頃は具体的にはそれがどのように可能になるのかなんて見えていませんでした。生きている意味を見つけたくて「人はなぜ生きているのか」といった哲学的な問いをよく考えたりしていました。だから大学に入ってから国際関係とは全然関係のない哲学の授業やゼミもずっと受けていました。

私は大学に入学してすごく嬉しかったんです。大学における勉強って答えがないんですよ。答えがないものをみんなで議論して考えるっていうのが、すごくクリエイティブでいいなと思っていました。それって自分の意見を言っていいってことなんですよね。後から思うと根拠のないことを色々と言っていましたけど、人と議論をしたりというのがすごく好きで「大学っていいところだな」と思って授業は全部楽しかったですね。だから修士課程を意識していたわけではないですけど、「ずっとこんな環境でやっていけたらいいな」という抽象的な想いはありました。

国際学はリベラル

根拠なき豊かな創造力で満ちた学部生からしっかりとした基盤を形成する修士過程へ

大学生の頃、企画した学内講演会で
大学生の頃、企画した学内講演会で

大学でNGOをやっている中で壁にぶち当たりました。私は「社会を変えていきたい」「問題を改善したい」ということと同時に、「自分自身が何か役立っているようなことをしたい」という両方の柱をもってNGOに関わっていました。そのため名刺をつくり、いろんな人の集まりに参加したり、意見を言ったりっていうことをやっていって、次第に「組織自体を変えたい」という気持ちになっていったんです。NGOというのはいろんな世代の人たちが集まっているし、今から考えるといろんな運動の系譜を引いている人たちがいる。組織の運動なり方向性なりを自分は「違う」と思って意見したりもして、議論も多くしました。でもなかなかわかり合えない。

同時に、お互いに足を引っ張るようなことが組織内部で起きてくるわけです。誰々のことが好きだとか嫌いだとかね。それは考え方や方向性の違いとかではなくて、人間関係の好き嫌いで組織の足を引っ張り合う状況が出てきたときに、「このNGOには限界があるな」と思ったんです。もちろんいろんな組織がありますからNGO全般を批判するのはおかしいと思いますけど。それで(大学卒業後に)就職ではなく大学院へ行こうと思ったときに、あえて東北大学を選んだんですね。

東北へ行くことで良かった点がありました。NGOとの関係が切れ、関係が清算された気がしたんです。研究っていうのには熱い気持ちは必要だと思います。だけど頭は常に冷静でいないと、分析対象を冷徹に分析することはできない。感情に引っ張られると例えば「チェチェンは独立するべきだ」「ロシアは絶対撤退するべきだ」みたいな「すべき論」の話になってしまうんですね。そういう話は規範や倫理の話です。規範や倫理を主張に忍び込ませるのは学術的には絶対にやってはいけないことなんです。だから私はある種、そういったものと切り離された環境下にいられました。

もう一つ良かったのは、しっかりと研究の基礎となる足固めができたことです。国際関係学って発想がリベラルなんですよ。それは自由な議論を許容するわけです。議論そのものをつぶそうという発想は一切ない。立場が違おうと、国際学は多様な見方、議論を積み重ねていくかたちで、つまりいろんな学問的な枠組み、ディシプリンを組み合わせるかたちで成り立っている学問なので、リベラルを捨てたら国際学から生産性が生まれない。だから、国際学はリベラルになるんです。

大学院生の頃に訪問したモスクワで
大学院生の頃に訪問したモスクワで

でも大学院は歴史研究の先生が指導教授でした。歴史研究って職人の世界、徒弟制みたいなところがあるんです。師匠の背中を見て学べって。根拠のないことも含めて自由に意見を言っていた学部生の時から、色々と縛られる修行みたいな感じに修士で変わったんです。当時は反発しましたよ。でもこのやり方が後になって思うとすごく良かったんですね。というのも自分の根っこの部分の研究があって、しっかり地に足着いていないと、いろんな議論ができなくなってしまうんです

例えばある地域で紛争が起きたり、大きな問題が発生したとき、その地域の歴史や社会的背景とかをしっかり学んだ上で、その上で歴史や社会的背景で問題を説明するのか、それとも、理論やより大きな文脈で説明するのかを考えるのが研究者だと思うんです。でも理論研究者は、歴史を知らないし、歴史研究者は理論に反発する。私は、もともと大きな話をしがちでしたけど、歴史や社会的背景と丁寧に向き合う作業を修士課程のときにやらざるを得ない環境に追い込まれました。それが後々になって非常にプラスになって活きてきました。

ロシアとイスラーム

多民族国家ロシアを学ぶ重要な視点

チェチェンにあるモスク
チェチェンにあるモスク

東北大では、イスラム圏研究講座という名前の講座に所属していました。実はチェチェンにおいて「イスラーム」というのは非常に重要なことなんです。なぜ重要かというと、「イスラーム国」が世界で大きな注目を集めましたよね。「イスラーム国」に対して義勇兵を送っている国の3番目は、実はロシアなんです。これを聞くと多くの人が「ロシアってキリスト教の、ロシア正教の国じゃないの?」と思いますよね。でも、ロシアと中央アジアの国を足すと、義勇兵の数は2番目になっちゃうんですね。4,000人規模になると言われています。

ロシアから来ている人のほとんどがチェチェンや北コーカサスというムスリム地域と呼ばれるところからなんです。ロシアは多民族国家だから、国の中に200種類くらい民族がいると言われているんですね。その中にはチェチェン人のようなムスリムもいれば、仏教徒もいます。そして、このチェチェン人たちが「イスラーム国」に参加していたりしているんです。「イスラーム国」の有名な軍事司令官はチェチェン系の人だったりします。「イスラーム国」とロシアって結びつかないようなイメージを持たれますけど、ロシアを理解する上でイスラームってすごく重要なんです。

だけど私もその時はその重要性に気付いていなかったんです。(イスラム圏研究講座に)所属したことによって、例えば、いま「イスラーム国」について論文を書いたり、中東研究者と議論したりできるのはなぜかと言えば、あの時にイスラームというものについて、少なくとも最低限の知識を理解して、その上でロシアが抱えているイスラームの問題とかチェチェンのイスラーム過激派の動向とかを見ることができるようになったからだと思います。中央アジアも含めて、ユーラシア地域、旧ソ連地域におけるイスラーム主義者の動向っていうのは無視できない規模の影響力を持っているんです。そういうことも修士課程でイスラームっていう観点から学んでいなければ、おそらく、まったく議論することはできなかったんだと思います。思い起こしてみると、仙台だと人と接することも多くなかったし、寂しいような状況で研究しましたけど、それがあとあと非常に活きてきたかなと思うんです。

社会に還元しなければいけない 

いかに学問を極め、しかし分かりやすく社会に説明するのか

研究では、一般的に手法として歴史学や地域研究を重視してやるか、それとも一般化を重視してやるか、っていう違いがあります。どういうことかというと、チェチェンで起きている事象をチェチェン固有のものとして捉えるのか、それともチェチェンで起きているような紛争に関わるいろいろなメカニズムやダイナミズムというのは、ある程度他の地域でも適用可能なのか。つまりチェチェンで得た理解というものが他の地域においても有用な分析枠組みとなり得るのかどうなのか、ということを考えるんですね。

歴史研究や地域研究は、傾向として、その地域の特殊性を指摘するんですよ。「こんな特徴がある」とか「他の地域とはこんなに違う」という話をしがちなんですね。理論研究者は逆に個別の事例の違いを認めつつ、でも共通項だけ抽出してその共通項の中でも結果が違うものが生まれたりするので、その因果関係を抽出、考察しようということを考えるんですね。時にかなり単純化するので、批判が多いですけど。

私は枠組み的な方、つまり一般化を意識しています。地域研究者も自分の主張の中心的な議論は一体何かと聞かれたときに、「2時間あれば説明できます」じゃあダメだと思うんです。研究っていうのは究極的には社会に還元しなければいけないわけですよね。それなのに自分の研究のポイントを相手に伝えられないようなら、それは研究者として社会に還元できないんじゃないかと思うんです。

いかにジャーゴン(仲間内でのみ通用する専門用語)で説明しないようにするということが重要だと思っています。聞いたことのない言葉で説明してしまうと、その言葉を理解するのにまた時間がかかってしまう。例えば「チェチェンにおける国内対立はテイプやトゥフムで決まっている」と説明したとしたら、(聞いた人は)ぽかーんとしてしまいますよね。それを言い換えて「チェチェンにおける国内対立は氏族や部族で決まっている」と説明したとしたら、氏族や部族という言葉はわかるけれども、その中にいかなる内実があるかはわからない。言葉を聞いたときにワンクッションなり、ツークッション必要になる、説明のための説明が必要になるような言葉で第三者に説明するっていうのは不親切だと思うんです。その地域に対して一定以上の知識があって、より詳しくなってくると、その氏族や部族は突き詰めるとなんなのか、言い換えができるはずなんですよね。私としてはなるべく固有名を用いて説明するのではなく、より一般化して考える必要があるんじゃないかなと思っています。

チェチェンの話ってあまり聞いてもらえない、反応がないんですね。学生時代、「チェチェンマニア」ってからかわれたことがあります。真剣に考えていることをバカにされたような気がして心のなかで凄い怒っていましたけど、同時に「マニアじゃない。プロ(研究)だ。」とも思っていました。でも、実際、チェチェンって小さく扱われがちなんですよね。面積的にもロシアで非常に小さな面積しか占めていませんし、重要視されない。ロシア関係と言えば、やっぱりイメージはプーチンですから。

(そんな状況で)話を聞いてもらうには2つやり方があります。一つは他の紛争研究者たちに対して自分の研究を売り込む。もう一つは比較や理論の研究。どちらにしてもロシア以外の地域を研究している人たちに売り込んでいく。そうしないと自分自身の研究を生き残らせることができないんです。

そのため、(私の)博士論文は表が多いんです。人間って言葉で観念的に話せばいくらでも話せますけど、図や表で示すとなると、ほんとうに必要最小限のものしか必要なくなります。私は「図式化できないこと」っていうのは「自分自身がきちっと理解できていない」ことだと思っています。図式化することによって物事を少しでも分かりやすくしていく。

私が本(博士論文)を出版するにあたって目標としたのは、「ほんとうに必要な人が必要なときに何度でも読み返せる」ということと「必要な枠組みや図式をちゃんと提示している」ということでした。

後書きには自分が幼少時に問題児だったことなども少し書きましたが、そこで意識したのは、小学生の頃に考えたこと、つまり、この本が誰かにとって必要な役割を果たすようにしたいということです。もう一つは自分が学生の頃、「問題の図式が分からない!」と思った記憶があったので、文献や年表含めてすべて必要な情報がある本にしようとしました。自分の経験してきたこと、それは個人的なことのことも、研究でのことも含めて経験してきたことを土台にして、集大成的なものが博士論文としてでき、本を出すことができたので、今までのいろいろなことが一区切りできたのかなと思っています。

希望に満ちていた

当時の資料から分かる社会の熱量や活力

(博士課程在学中も修了後も)日本学術振興会の特別研究員をやっていましたので、計5年間お給料をもらいながら研究をするという非常に恵まれた環境にありました。そのおかげで貴重なロシア語や英語の本なんかも集められました。日本の大学や研究機関にも置いてないような資料を手に入れることができるんですね。チェチェンの新聞もファイリングしています。

新聞からは当時のエネルギーというか躍動感が伝わってくるんです。私にとってはほんとうに宝の山。例えば(新聞に掲載された)風刺画や挿絵なんかも、当時のチェチェンの社会状況が分かるんです。当時のチェチェンはほんとうに大変な状況下にありましたが、ある程度の希望に満ちていたんです。私が博士論文執筆中に読んだものなんですけど、他の研究者が現地で行ったインタビューで、とても印象に残っている言葉があります。

チェチェンで1997年に紛争後に初めて行われた民主的な選挙があったのですけど、それはとても大きな意味合いを持っていました。当時30代半ばの女性が97年の選挙を思い出して語るインタビューなんですけど、次のようなものです。

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私の人生でたった一度だけ自分の票を投じたのよ。
それがあの日だったの。
なんてたくさんの人が投票していたのかしら。
投票所には行列ができていたわ。
人々は踊っていたの。
みんな感じていたのよ。
戦争は終わったんだって。
私たちは新しくよりよい生活をはじめるんだって。

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非常に強い期待感と今後に対する希望を、思い出して語っているんですね。そのあと実際には失敗をしていると知っている上で。それでも、それだけの期待をしていたんです。当時いろんな人たちが挫折して失敗したかもしれないけれど、チェチェンが平和になるためにはどうすればいいか、いろんな取組を行ったわけですね。ですから私は当時の政権に着目して彼らがいったいどういう取組を行ったのか、それらがどのように現実の難問にぶつかってうまくいかなかったのか、それはやはり国際社会は教訓とすべきじゃないか、と思っているんです。

失敗例から学び取れる教訓

失敗した無数の事例の上に成功がある

失敗すると人間は後付けでいくらでも言えるんですよ。「やっぱりあのやり方はうまくいかなかった」とかね。そうじゃないだろうと。私はチェチェンの事例は、「失敗した事例から学べる教訓」を多く提供できると思っているんです。

平和構築って国連とかの国際社会が介入することを言うんですが、チェチェンの平和構築とか平和定着という話をすると、「チェチェンは国際社会がほとんど介入していないでしょう。自分たちで勝手にやって、勝手に失敗したんだから平和構築に関するインプリケーションなんて何もないよ。」と言われるわけですけど、私はそんなことないと思うんです。

世の中の紛争事例で国連が介入している事例は限られています。実は半数程度の事例に対して、国際社会はなんら介入していないんですよ。統計的に実際調べている人もいますけれども、国際社会の武力介入というのはケースとしては100あるうちの2%くらいだと思います。そうすると紛争に対する国際社会の対応というのは実は多くの場合、表面的にそれを批判する、何らかの声明を出す、勧告するとかしかできない。ちょっと介入を強めて紛争の仲介をする程度です。そのあと経済的な支援をするとかいろいろやっていきますけど、国際社会ができることって実は限られていて、多くの場合は武力的な介入を批判しますけど、それは100あるうちのたった2件程度の事例だけであって、他の多くの紛争事例はそのまま放っておかれているんですよね。

そういう現実がある中で、いかに当事者たちが平和をつくろうとしていくのか。その取組を軽視してはいけないでしょ、と。放って置かれると紛争地は自分で、チェチェンの事例のように対外的な働きかけをするんです。チェチェンの当時のマスハドフ政権はイギリスやアメリカなどの先進国にも外交しに行っていました。国際社会で誰にも相手されていない状況下でも取組を行っていたんです。自分たちの国が平和になるためにはどうしたらよいか、国際社会からも支援が欲しい、と。

チェチェンのような場合は国際的に承認されていない地域なので、ロシアとの関係が非常に大きなセンシティブな問題になるわけですね。実際にOSCEという機関が仲介をしていたんですが、ロシアの反発もあり手を引いた。いろんな要因があるのでもちろん一概には言えませんけれど、そのときに何らかの仲介機能を果たし続けていれば、もしかしたら紛争の再発を防げたかもしれない。

世の中において失敗した事例に注目するのは重要だと思うんです。なんでもそうですけど、成功例から物事を考えようとしますよね。だけど世の中で成功している事例なんてほんとうにごくわずかで、その背後にいろんな失敗例があると思うんです。失敗例から何も学べないかというとそれは大きな間違いで、失敗例から学び取れる教訓はあると思うんですね。

現に紛争下で希望を抱いていた人たちがいて、紛争は多くの人たちが命を失っていくわけですよね。そういって忘れ去られた人たちの屍の上に今のチェチェンであったり社会はあるわけですから、そういうものを見つめるっていうことと同じだと思うんです。そういうことも含めてチェチェンの事例は非常にインプリケーションが多いし、考えるべきことが多いと私は思っています。だから相手にされない部分もあるけど、自分からやっているということがあるんですね。

シベリア抑留

自分自身のバックグランドについて知り学ぶ必要性

私の祖父は新潟の農村から徴兵されて、戦後にシベリアに抑留されていました。私は中央アジアを含めたロシア研究ですけど、シベリア抑留については自分の研究ではなく、これまで調べてこなかったんです。祖父はハバロフスクとビロビジャンというユダヤ自治州に5年間抑留されていたんですけれども、亡くなった戦友たちの墓参りをしたいということで、墓参りに連れていくことになりました。

ビロビジャンに建立されている抑留者慰霊碑
ビロビジャンに建立されている抑留者慰霊碑

祖父は耳も遠くなっているし、戦争の体験を自分からはほとんど話さないんですけど、ビロビジャンへ向かう電車の中で珍しくいろいろ話してくれたんですね。アムール川のほとりのホテルで川を見ながら昔のことを思い出したりとか。唐突に言うんですよ。会話というよりは自分が思い出したことをぼそっと言ってくれた感じです。

「タバコが支給されるんだけど、それは僅かな数で、しかも1週間か2週間に1本あるかないか。1回吸っちゃったら終わってしまう。俺は農村育ちだからどうやって長く吸うか考えて大切にするんだけど、都会育ちの○○はそんなこと考えないで、あいつはタバコが配給されるとすぐ吸っちゃうんだよ」とかいう話をするんです。そして「そいつは木の伐採中に木が倒れてそのまま死んじまった」とか「夜中話していたやつが、おいって声をかけたらもう死んで固まってしまっていた」とか、そういう戦争体験を話してくれたんですよね。

そのときに自分がこの祖父の孫であるということを考えると、私はチェチェンというまったく違う事例にフォーカスして来ましたけれど、やっぱり祖父から学び得ることがあるはずだから、それを是非とも活かしていくかたちが求められているのかなって感じています。

授業の中で日ロ関係も教えていますが、シベリア抑留という話も自分自身もっともっと勉強していって、祖父に聞ける話は聞かなきゃいけないなと考えています。自分の背負っているものや考えていることがほんとうは重いものなんだなって思うんですよね。あえて違う事例をやってみることによって、自分自身と向き合うことができるという側面もあると思うんです。チェチェンを見ることによって紛争とは何かを問い直す中で、日本の役割であったり日本で戦争を経験してきた世代の重みをいかに受け継いでいくかとかも、まったく関係がないわけではないと思うようになりました。

祖父のシベリア抑留経験についてのオーラル・ヒストリーはその後、研究に取り組み成果を公開しています

ウズベキスタン

外交官補の身分で専門調査員として勤務、10年ぶりの総理訪問と独裁的な大統領の急死

特別研究員として5年間研究していたんですけど、そのあとどうしようと考えたんですね。もう子どもは産まれていましたし、妻も博士課程を終えたいという状況でしたから、食いつないでいくというのが切実な問題なので、いろんなポストを出してみたんですね。結局、大使館の専門調査員っていう仕事をすることになりました。それでウズベキスタンの首都のタシュケントにある日本大使館で働くことになりました。

専門調査員って昔は研究者の卵が現地に行って、好きな研究をやっていて、ときどき報告書を出したりして、けっこういいお給料をもらえるっていう「良いお仕事」だったんですね。でも今は違って、いわば雑用係になっているんです。

正直、専門調査員として働いた間はまったく研究できませんでした。だけど良かったなと思うところは二つあって、一つは社会経験を積めたこと。博士課程までやっておくと、30代くらいになっていて「人間のかたち」ができているんです。「これに対してはこう思う」とか「こう対応しよう」とかできてくる。でも組織に入ると自分の意見や考えは関係ないわけです。違うと思っても自分が引き受けてやらないといけないという場面に直面する。

日本人墓地(プレス班現場担当として勤務)
日本人墓地(プレス班現場担当として勤務)

研究は一人で組み立てていけますけど、組織に入ると組織人としてのやり方でうまくやっていかなきゃいけないんです。ただそれに染まってしまって諦めるのではなく、その中で良い方向に変えていこうとか何かやっていこうという気持はある。そうすると人間関係が色々あるから、じゃあどうすればうまくまわっていくか。言い方を考えるとか、裏で働きかけをするとか、必ずしも良いことだけではないですけど、学んでいないとわからないことですよね。そういう経験が社会勉強としてできたのは良かったかなと思いますね。

もう一つは私がいた間に安倍総理がウズベキスタンに来たんです。首相が中央アジアに来るなんて小泉総理以来のことでした。ウズベキスタンの大使館には12人日本人職員がいるんですが足りないので、応援出張者をいろんなところから呼んで総理訪問の準備をするわけです。応援出張者ってロシア語圏じゃないところからも来るんです。私はプレス班でしたので、いろんなマスコミを連れていかなきゃいけない。でも全部事前に、カメラの入り方から決めておかなきゃいけないのでその交渉役をすることになったんですね。優秀な現地職員がいましたから任せる場面もありましたけど、現場に入ってその場でロシア語で打ち合わせをしなきゃいけない。いろんなハプニングもありました(笑)。あまり詳しくは言えませんが、その際に人間がどう立ち振る舞うのか、自分も含めて見ることができたのは良かったですね。

私たち以外の班は実際の首相訪問の前にあらかた仕事は終わっているんですね。でも私たちプレス班はみんなが「お祭り終わったー」みたいな雰囲気の中で、必死で会談の内容や翌日の朝刊を深夜に入手してロシア語から日本語に訳す、という作業をしていたんですけど、そういうことも経験できたのは良かったですね。

ウズベキスタンは1991年の独立以来、ずっと26年間同じ大統領でした。その大統領が私のいた期間(2016年)に死んじゃったんですよ。多くの国の場合はそういう人が死ぬと情報が錯綜して混乱するんですけど、この国はメディアを統制しているので、逆なんです。情報がまったく出てこない。どうやって情報を入手するか、どうやって分析するか。特に大使が代わって、情報に対する分析や見方も厳しくなっていたので、仕事も大変でした。それもあって大使館での勤務は、バタバタしてあっという間に過ぎた感じでした。

その後、2017年4月に東海大学で勤務し、2020年4月より同志社大学に着任しました。